感傷的城南球場坂

このところ高崎市街地に様々なハコモノが出来るという情報がある。元・日本製粉の工場があった場所が新高崎体育館となって生まれ変わるらしい。
現在、高崎駅東口方面にある「高崎体育館」の老朽化が進み、規模の問題もあり、新たな施設を造ろうということになったようだ。

新体育館予定地

新体育館予定地

体育館以外にも大手スーパーのイオンが高崎駅西口に隣接して出店するようだし、東口には、あまり必要とも思えない大規模集客施設の計画もある。こちらなど400億円という東京スカイツリーに匹敵する予算規模で、あまりに無謀な計画だと思う。スカイツリーは全国どころか外国からのお客もやって来るけれど、高崎駅東口では、隣の市かその先くらいが関の山。回収が期待できそうにないため、税金の持ち出しになることが危惧される。建設費のみならず、運営費が毎年馬鹿にならない金額になるはずで、建物ができて、その時は気分がいいかもしれないけれど、未来への負の遺産となる可能性が高い。

新高崎体育館予定地

新高崎体育館予定地

JR高崎線と上信電鉄の線路に挟まれた広い三角形のスペース。
このスペースのすぐ横には上信電鉄の踏切がある。

上信電鉄の踏切

上信電鉄の踏切

昔は、買い物姿の人が見られた下町的な踏切だった。

昭和51年頃

昭和51年頃

このあたり、以前は南高崎駅横にセメント工場への引き込み線があり、そこまでの貨物輸送の運用が比較的多く、ジーメンス社製のデキ型機関車が元気にピストン輸送している姿をよく見かけられた。踏切から南高崎駅方面を覗き込むと、小さな電気機関車がなにやらちょこちょこやっている様子が見えてうれしくなったものだ。

上信電鉄 南高崎~高崎

上信電鉄 南高崎~高崎

上信電鉄 南高崎~高崎

上信電鉄 南高崎~高崎

上信電鉄 南高崎~高崎

上信電鉄 南高崎~高崎

デキがやって来ると、公園で遊んでいた子どもたちは、一斉に集まって電車見物となる。

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自分は高校時代、このあたりの雰囲気が好きで、時々出没しては街の写真を撮っていた。今でも昭和の雰囲気が感じられる街角だと思う。

サウダージな街角

サウダージな街角

高崎市街地の中心部から見れば、人通りの少ないこのあたりから烏川方向に歩いて行くと河岸段丘を下る坂道となる。

城南球場通り

城南球場通り

坂の下には城南陸上競技場や城南プール、そして城南球場がある。

城南プール

城南プール

高崎市街地とはいえ町中とは言えないところに育った自分にとって、城南プールは大人のプールだった。確か、水深も一般的な公営プールよりも深く、子どもにとっては、ちょっと危険な雰囲気があり、友人が「城南で泳いできた」と言えば、心のなかで「すげぇ!」と密かに思ったものだ。

城南陸上競技場

城南陸上競技場

城南球場

城南球場


高崎の南西部に位置する城南球場は、市内随一の野球場で県都前橋の敷島球場に次ぐ規模を誇っている。
この球場のいいところのひとつは、元々の立地が烏川河川敷であるため視界が開けていて、榛名山や浅間山などが遠望できること。都会の野球場では味わえない田舎ならではのものだ。

榛名山の山並みが見える

榛名山の山並みが見える

浅間山も見える

浅間山も見える

この坂道、普段はそれほど行き来する道ではないのだけれど、毎年夏になるとかなりの高崎市民がここを通ることになる。

高校野球の応援だ。

炎天下、木陰のない坂道を下ると球場が近づくに連れ応援団の太鼓の音や観客の声援が聞こえてくる毎年の夏の光景。
高校時代の刹那、白球を追いかける球児たちのストイックなドラマは、高野連やプロ候補生の醜聞を数えきれないほど聞かされていても感動せざるを得ない素晴らしいものだと思う。

当然かも知れないが、城南に出かけるのは春が過ぎて暖かい日差しが戻ってきてからだ。

その為か、ここでは冬のイメージが湧かない。この時期の周辺は、夏の賑わいと対照的に寂しい世界となる。

高崎市民の中には、この坂に対して自分と同じような感傷的なイメージを持つ人が多いのではなかろうか。過ぎてしまった[あの頃]、人生の「真夏」を懐かしむ気持ちは、誰でも同様に胸に訪れるものだと思うのだ。

城南野球場通り

城南野球場通り

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深浦の思い出

今年も青森へ行った。
青森には、30年来の友人が住んでいる。毎年の夏、「ねぶた祭」見物を兼ねて、彼ら家族に会いに行くのである。
今年は、ルノーメガンツーリングワゴンで出かけることにした。このクルマでロングドライブするのは初めて。考えてみれば、ヤフオクで20万そこそこで落札したのも3年前の青森からの帰路だった。正確に言えば、落札ではなく入札。JR羽越本線の列車内からiPadで入札したのだ。

国道7号線 鼠ケ関付近

国道7号線 鼠ケ関付近

そのまま自宅に帰り着いて、メールの確認をしたら「落札」してた。

ルノーメガン ツーリングワゴン

ルノーメガン ツーリングワゴン

あれから、3年も経っちゃったのか、、、。
ま、とにかく今回は、このクルマで高崎を夕方に出て、途中で仮眠をとり、翌日の午前中に友人宅へ到着する予定。

道の駅岩城

仮眠をとった「道の駅岩城」

今まで、青森には、いろいろな手段で出かけていったものだ。昭和48年の第一回目は、上野から急行「津軽1号」という寝台急行に乗り、東北本線、奥羽本線と乗り継いだ。みちのくへの夜行列車という中学1年生の自分にとって初めての雰囲気を味わい、眠れぬ夜をすごした。

東北本線の夜行列車を索くEF57

東北本線の夜行列車を索くEF57

その後は、北海道からの帰り道に立ち寄るくらいだったのだが、ある年クラシックギター仲間だった青森の友人に誘われ、ねぶた祭のハネトを経験してから、この街がグッと近い存在に感じられるようになった。祭りというのは、観るより参加するものなのだという事がよく分かった。

最近では、青春18切符を利用したり、寝台特急「あけぼの」のB個室でゆったりと出かけたり、バイクのツーリングで出かけたりと、毎年の夏、涼しい青森で過ごすことにしている。

立佞武多

立佞武多

五能線は、青森県の弘前駅と秋田県の東能代駅を結ぶローカル線で、大正時代の蒸気機関車8620型が残っていた数少ない路線。西津軽の荒涼とした海岸沿いを走る趣きのあるところで、どうしても、ここを走る汽車の写真が撮りたかった。

五能線 能代駅を発車する東能代行き列車

五能線 能代駅を発車する東能代行き列車

能代~向能代 米代川橋梁をゆく8620

能代~向能代 米代川橋梁をゆく8620

ディスカバージャパンのスタンプ

ディスカバージャパンのスタンプ

1月の成人の日を含めた連休を利用して、宿泊は五能線の中間点である港町「深浦」の旅館と決まった。

五能線 大間越~岩館

五能線 大間越~岩館

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現在の大間越駅

現在の大間越駅 隣の陸奥黒崎駅は、白神岳登山口駅と名前を変えていた。

五能線 大間越~岩館 48640

五能線 大間越~岩館 48640

実は、この前年の暮れに五能線で大事故が起こった。深浦駅~広戸駅間で荒波が道床をさらい、ちょうど通りかかった8620の索く列車が脱線転覆してしまったのだ。この区間は本当に荒波が被るほど海との間際を走る区間で、機関士が殉職するという大惨事となり、この区間は不通となった。我々が出かけた時もまだ復旧しておらず、深浦駅~北金ヶ沢駅間がバスによる代替輸送となっていた。その為、ダイヤは乱れ、入念に計画していた撮影計画は、ことごとく変更ということになってしまった。思い出深いけれど、とても残念な旅となった。

現在の大間越~岩館

現在の大間越~岩館

ある夏(’83頃?)、旧い中古のトヨタマークⅡGLで青森へ出かけた時のこと。ドライブ好きな友人がどこかへ行きたいと言い出し、それでは、深浦へ行ってみようということになった。中学生の旅の時に泊まった旅館「越後屋」を見てみたい、という個人的な理由で。
青森から国道7号線、101号線を走り深浦へ向かった。

深浦駅と越後屋旅館のスタンプ

深浦駅と越後屋旅館のスタンプ

10年ぶりくらいに訪れた深浦の町は、季節こそ違えど、記憶にあるものとほぼ同じだった。駅から旅館に向かう道もその町並みもイメージ通り。そうだ、ここを通って、この辺りで背負っていたリュックサックが破れちゃったっけ、、、などと、いろいろな思い出が蘇る。ところが、自分がイメージしていた「越後屋」の場所は間違っていたらしく、結局、分からずじまいとなった。地方の小さな旅館が、そんなに景気がいいわけじゃないし、おそらく、やめてしまったのかなと思っていた。まだバブル景気が訪れる前の話だ。

数年前に訪れた時は、グーグル等で「越後屋」を検索してみたけど、見つからず、やはりやめてしまったのだと確信したのだった。

ルノーメガン ツーリングワゴン 岩館~大間越

ルノーメガン ツーリングワゴン 岩館~大間越

今年の夏、青森からの帰りは、往路と同じコースをとることにした。
昨年、バイクで帰った時、国道7号線を南下したのだけれど、意外と渋滞する場合があったり、遅い車が延々と前を走り続けるということがあったりして秋田まで意外と時間を要したのだ。
それに、地図で見ても五能線沿いのコースと距離には大差ない事がわかった。しかも、五能線コースに渋滞はないし、海沿いの素晴らしい景色の中をマイペースで走っていける。
今回は迷わず、こちらを選択した。

それと、新潟県村上市あたりから高速道路を使うとしたら、22時を過ぎないとETC割引対象にならないということが判明したのだ。だとすれば、ゆっくり走って行かなければならない。深浦あたりで時間を潰しつつ帰ろうということにした。

青森、津軽新城にある友人宅を朝7時に出発。朝8時からやってる五所川原のイオンモールにて食料やドリンクを購入。そのまま101号線を鰺ヶ沢方面へ向かいます。
途中、千畳敷近く、風合瀬の道の駅にて休憩。ここは鮮度のいい魚介類を格安で販売してるので地元の人達が買いに来てる。クーラーバッグを積んでくればよかった。
ここを過ぎれば、すぐに深浦の町。

深浦駅

深浦駅

今回は、「越後屋」が建っていた場所だけでも特定して、写真を撮ろうと思ったので、近くの住民の方に聞いてみた。
「昔、越後屋さんって旅館がありましたよね?」と聞いたら、「あぁ、越後屋さんね。この先100mくらい行ったところだよ。(もちろん津軽弁)」
「もう、やめちゃったんでしょ?」「えぇ~?まだやってると思うよ。(もちろん津軽弁)」とのこと。
なんと!越後屋さんはまだ営業されていたのです。どうして、グーグル検索でも出てこなかったんだろう?と思いつつ、iPhone5で調べてみたら、、、「あった!」。

深浦 越後屋旅館

深浦 越後屋旅館

深浦 越後屋旅館

深浦 越後屋旅館

越後屋さんは、自分が訪れた時とほぼ同じ外観で、営業されていた。建物を見た時、あぁ、こうだったと記憶が蘇ったのです。
深浦駅までは自分が思っていたより若干遠く、寝坊して、まだ暗い早朝の町を抜けて走った時の心細い気持ちを思い出した。

深浦 越後屋旅館前の通り

深浦 越後屋旅館前の通り

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リュックサックには、他の荷物に混じってソニーのカセットテープレコーダーまで入っていて、とても重かった。これを背負って走ったもんだから、駅につく直前にビリビリと破れてしまい、両手で抱え直して、さらに走ったのだ。ギリギリで代替バスに間に合ってホッとした。このバスの車窓から、まだほの暗い広戸に至る途中の本来撮影する予定だった場所や脱線転覆現場付近を見ながら通過した。

深浦駅へ至る道

深浦駅へ至る道 おのあたりでリュックが破れたのだ

深浦~広戸

深浦~広戸

予定が崩れたので、五能線に揺られ川部駅へ。ここで黒石線の8620を垣間見て、弘前へ向かい機関区を見学。8620が何台も残っていた。

鰺ヶ沢駅と五所川原駅のスタンプ

鰺ヶ沢駅と五所川原駅のスタンプ

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その後、青森駅へ。青函連絡船を見て、北海道への旅を予感。駅前で食事をして特急列車(はつかり3号24Mだったか)で大宮経由高崎へ戻った(と思う)。

青森駅 大雪丸から見た青函連絡船跨線橋

青森駅 大雪丸から見た青函連絡船跨線橋

ところで、鰺ヶ沢の町中で不吉な看板を見かけた。「核廃棄物・中間貯蔵施設建設反対」というもの。まったく、何を考えているのか、、、。

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北の国から

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「北の国から」のTVシリーズが、’81年に放映されていた時、最初の数回を見逃した。

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ディスカバー・ジャパンのスタンプノート

その為、いずれ再放送を見ればいいやという気持ちで、その後も観なかった。(、、、と思っていたが、最近、連続版を観ていると、幾度か既視感があったので2~3回は観ていたようだ)

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観なかった理由のひとつに、自分は中学生時代に経験した数回の汽車の撮影旅行で、実際の北海道を知っているという妙なプライドがあったからだ。

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その頃、「北海道周遊券」を使った汽車の撮影旅行は、切符の有効期間いっぱいの2週間、基本的に夜行列車の乗り継ぎのみで道内各地を巡るものだった。
もちろん、富良野にも何度か行っていた。だから、あのあたりの景色や独特の空気は知っていて、友だちがドラマを観て「いいところだよなぁ」などと言おうものなら、なおさら癪に障って、観ないことに決めたのだ。

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これは、「北の国から」放映と同時期(’81年)にルノーキャトルを購入したというだけでフランス車を知ったつもりになって、その6年後の’87年に開催された「フレンチ・ブルー・ミーティング(FBM)」についても「フランス車はツルんで走るもんじゃないのよ!」というワケの分からない理屈をつけて一切無視を決め込んだことにも通ずる。要するに単なる「おバカ」である。今になって、あの頃から通ってれば良かったナ~などと思っている。

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余談だが、実はその頃、「deux et quatre」というルノーキャトルとシトロエン2cvを専門に取り扱う店を始めていて、「スクランブル・カーマガジン」にも広告を載せたり、それこそミーティングを北軽井沢(地蔵川ホテル)で開いたりしていたのだった。←すでにツルでんじゃん!

ま、そういった理由で「北の国から」の連続TV放映版はほとんど観ていなかったのだ。
いずれ、DVDで「通して」観ようとは、ずっと考えていた。ところが、昨年、偶然にスペシャル版の「’87初恋~」「’95秘密~」を観てしまった。それからは、どうにかして連続TV版を観なければ、という気持ちになっていた。
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なにしろ「秘密」の宮沢りえが良かったのだ。これがとんでもなく良かった。
秘密の過去を持った若い女性を見事に演じ、心底驚いた。宮沢りえが、こんなにいい女優だとは気づかなかった。
自分のmixiの日記2012/4/8(http://goo.gl/Daz8C)にも書き込んである。

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そして、先日BSフジで連続TV版を再放送しているのに気づき、録画したのだ。
いよいよ、全部観ることができる。うれしいなぁ。

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連続版を観て驚かされたのは、全ての女優陣が、もともと自分が持っていたイメージと違い、全員いい味を出していたことだ。
純と蛍の小学校の先生である原田美枝子も切ないほど素敵に演じていた。原田美枝子がこんなにいい女だったのにも気づかなかった。
松田美由紀の「つらら」も、児島美ゆきの「こごみ」もラーメン屋の風吹ジュンも、まさに役柄にピッタリの適役。これは、奇跡的なキャスティングだと思う。

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もちろん、男性陣も同様に奇跡的なキャスティングだ。
五郎役は、高倉健・藤竜也・中村雅俊・緒形拳・西田敏行が候補に上がっていたらしいけれど、今となっては、田中邦衛以外にありえないだろう。

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ガッツ石松が、後にスピルバーグに認められ「太陽の帝国」に出演した時、よく才能を見出したものだと感心していたが、もっと前から認められていたのだ。
「ちぃ散歩」は時々観ていたが、地井武男が「北の国から」のメインキャストだとは知らなかった。こんなにいい役者だったのかと改めて思う。

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そして、なんといっても草太兄ちゃん役の岩城滉一が泣かせる。
現代的に言えば「チャラ男」である素朴な田舎の兄ちゃんが、どうしようもない不良のくせに、この上なく優しい一面を持ち、他人のことを思ったりもする。
人間の多面性を信じさせてくれる役だった。
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この作品の全編通して言えることだけれど、出演者がそれぞれみんな「陰」を抱えて生きている。
実際の社会でも「陰」を持たない人間などいないわけだが、それを小学生時代から大人になるまで通して演じている役者というのも、吉岡秀隆と中島朋子以外にはいないだろう。

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特に純の子供ならではのズルい性格は、おそらく誰にでもひとつやふたつ思い当たるだろう。仲のいい家族3人と善人な地域の人々の間で育つ彼が、そのまま素直な人間に成長してはいない。ここにも人間の多面性が現れる。子供の頃の蛍も、非の打ち所のない優しい性格なのに、大人になるにつれ様々な問題を抱えることになる。人生はホント単純じゃないや。

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「北の国から」と並走して「男はつらいよ」が制作され続け、純役の吉岡は「寅さん」で満男を演じることになる。彼も、博とさくらという完璧な超マジメ両親に育てられながらも、叔父さんである「寅」の浮き草人生をトレースし始める。実は、「男はつらいよ」の第一作で、御前様(笠智衆)が、生まれたばかりの赤ん坊・満男のことを「誰かに似ているなぁ、、、おお、寅だ。寅にそっくりだ」と宣い、さくらから「嫌ですよ、御前様ぁ」と返されるシーンがある。山田洋次は知ってか知らずか、この一作目で満男の行く末を暗示させていたのだ。

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「男はつらいよ」は、渥美清の死で終わってしまったが、自分は、同じシチュエーションをタイトルもそのまま、吉岡秀隆主演で続けて欲しかった。
松竹は「虹をつかむ男」というタイトルで一作だけ同様の作品を西田敏行&吉岡秀隆で撮っている。が、願いは叶わなかった。

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20世紀末~21世紀初頭の20年くらいの期間で日本は全国的に大きく変わった。街の中心街が寂れ、郊外型店舗が増え、昔ながらの街並みが消えていった。同時に日本人の内面も大きく変わったと思う。「北の国から」が描いてきたのは、この大きく変貌する前と後の物語だ。

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ま、最新の「北の国から」は、そんな彼らの「今」を描いているようで、早く観てみたいものだ。

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キャパの写真とAKB

NHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント運命の一枚~”戦場”写真 最大の謎に挑む」を観た。ロバート・キャパの有名な報道写真「崩れ落ちる兵士」に隠された謎を追うルポルタージュだ。

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その番組の中で主題とは別の写真が目に止まった。キャパが撮ったという、ユダヤ人迫害時のナチスドイツに手を貸した同胞の女性(フランス人?)が丸刈りにされた写真だ。街頭を歩く彼女は、周囲に集まったたくさんのユダヤ人同胞から蔑まれ、嘲笑の対象となっていた。http://goo.gl/EJ58L

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詳しくは知らないが、欧米でも女性が丸刈りになるというのは、やはり、特別な何かがあるのだろう。

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ちょうど、現代日本で同じような問題が騒がれている。自分はガキのゲーノー人グループなんぞに全く興味が無いので、無視していたのだが、ここへ来て、それなりの知識人すら今回の丸刈りについて「人権」云々言い始めやがるのが気に障っている。

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おりしも、子供の自殺事件から学校での体罰問題がクローズアップされ、その延長線上でも「人権」が語られ始め、これらが合体してひとつのベクトルを形成してしまったようだ。丸刈り=体罰=人権侵害という小学生レベルの三段論法である。

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バカ新聞がこんなクダラナイ記事を載せているお陰で、我々にとって本当に重要な真実が表に出てこないのは3.11以降よくわかっているはずだ。国民がバカであれば、国家は安泰だと信じているジミン党を喜ばせるニュースでしかないのだ。

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だが、日本のアホな小娘が、特殊な集団の中で規律(男女交際禁止)を犯し、自ら丸刈りになって反省の念を示すのと、体罰(暴力行為)とは全く異なる。第一、あの小娘の丸刈りを反省の証だと信じている人がいたら、アホの自乗である。ああいうのをピーアールというのだ。

小手先のパフォーマンス以外の何物でもない。第一、ご丁寧にもそれなりの画質の動画まで撮影して公開しているではないか。これらのパフォーマンスのお陰で、ゲーノープロダクション的には、一体いくらの宣伝効果があったことか。

(ついでだが、一部の尻馬商魂野郎たちは、アンドロイドアプリ「丸坊主カメラ」までリリースしている。)

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「人権侵害」とは、何をか言わんや。小娘は、その異常なゲーノー界に所属したいがために丸刈りパフォーマンスをしただけである。百歩譲って、センセーからギョーカイに残りたくば、丸刈りにせよ!と命令されたとしても、丸刈りにするかしないかの選択は、小娘にある。これが「体罰」とは一線を画す点だ。バカな小娘をイタズラに擁護しても何の解決にもならない。すでにこのパフォーマンスが莫大(?)な宣伝効果を産んでおり、その片棒を我々が担いでいる事実。本当に問題だったら警察が動かなきゃイカン。「興行」の延長線だと認識してるから、誰も動かないのだ。

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日本では昔から「頭を丸める」という文化が存在していて、欧米の「人権侵害」とは全く別の価値観である。オレなんかが中学生の頃は有無を言わせず、男子は丸刈りだった。これを「人権侵害」というのは正しい。だが禊の意味で「頭を丸める」のは「人権侵害」ではない。自ら頭を丸めたのを人権侵害と結びつけるのは、サヨク的思考なのだ。
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普段ウヨク的発言を繰り返している知識人が小娘映像を見て「人権侵害」など叫ぶのはチャンチャラおかしい。ゲーノー界に自浄作用なんて望むべくもなし、「人権侵害」的な行為はまかり通っているはず。ヤクザの世界にゃ通用しませんよ。おそらく、スポーツの世界も似たようなもんだろうけど、こっちは自浄可能かもしれん。

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まぁ、結論。AKBなんとかいうグループのたいして可愛くないロリ娘の戯言を神聖化するのは、天皇陛下が白いウンチすると信じているようなもんで、ただのバカである。
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オレは中学生の頃、超可愛かった浅田美代子のファンだったが、吉田拓郎とハワイの密会を報じられた時、彼女の普段の表情がその前後で微妙に変わってしまった事に気づいていた。そして、あぁ、浅田美代子もオワッタナー、な~んて思っていたものだ。ガキながら、ゲーノー界なんてそんなもんだろ的に醒めていた

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代理店の連中が企画会議の席で「男女交際禁止令」なんてどうよ?とか言ってハナほじくりながら考え出した口から出任せの宣伝文句を、疑いながらも信じようとするヲタク。まぁ、さびいしいね。

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キャパも反ナチ的なプロパガンダの中で好むと好まざるとにかかわらず、時代に翻弄させられてきた。「崩れ落ちる兵士」を撮影した時、22歳。丸刈りの小娘、20歳。一般的にはどちらも分別がつく歳でしょう、、、。

注)本文と写真とは、それほど関係がありません。写真撮影場所:秋葉原~御茶ノ水界隈

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全国に蔓延する台湾ラーメンの謎。

あなたの町にもあるだろうか?台湾ラーメンを出す中華料理屋が、、、。

台湾ラーメンのある中華屋

台湾ラーメンのある中華屋は今や全国に増殖中


台湾ラーメンとは、名古屋発祥の醤油系ラーメンのこと。たいていは、ひき肉のそぼろがトッピングされた少々胡椒の効いた辛めのラーメン。
関東ではあまり見かけなかったタイプのラーメンだ。

自分が始めて食べたのは、名古屋駅新幹線口の近くにある屋台風の食堂だった。間口が一間もない狭いその店で中国人と思しき経営者が作ってくれた。
決して忘れられないほどのラーメンではなかった。しかし、ちょっとエスニック掛かった風味は、ま機会があったらまた食べてみたいといったほどの印象であった。

去年(2011年)のこと長野県のとある田舎道をバイクで走っていた時のことである。ふと気づいたことがあったのだ。
道端にある中華料理屋。窓にはでかでかとランチメニューが貼りだしてある。台湾ラーメン+回鍋肉セット680円。
近くの工事現場の作業員たちがたくさん入っていて盛況だ。

どうも最近、この手の中華料理屋をよく見かけるなぁ、と思った。
新しく開店した中華料理屋なのだが、だいたい、中華定食が680円~700円くらいで必ずラーメンが付いているメニューがウリなのだ。
そして、そのラーメンには台湾ラーメンがだいたい選択肢に入っている。台湾ラーメン単品の場合380円だ。

スタッフが中国人の場合が多く、片言の日本語しか話せないのがもう一つの特徴。スタッフの年齢層はバラバラ。年端もゆかぬ少女から中年をとっくに過ぎた女性まで。
つたない日本語で注文をとった後、流暢な中国語で厨房に向かって声を張り上げる。(この声が結構デカイい)
日本語の未熟さからみて、来日後それほど経っていないのではないか、と感じる。
台湾ラーメンも他の中華メニューもはっきり言って美味くない。味付けが単調でラーメンのスープなどは間違いなく出来合いの缶スープ。
料理もシロウトくさい。

長野で気づいて以来、いたるところで似たような外装の中華料理屋を見つけると、外に向かって大きくアピールしてある中華定食のメニューを確認する癖がついてしまった。店名こそ違えど、ほぼ同じ店作り、同じメニュー。そしてこれが異常なほどの軒数なのだ。セブンイレブンなどのコンビニ跡地や古めのマンション一階テナント、もともと中華屋だった店舗の居抜きなど数えきれないほど見つかった。いったい何件くらいあるのだろう。

これは、どこか変だ、と直感した。

第一、中国人と思われる彼らフロアスタッフは、いったいどんなビザを所有しているのだろう?中華屋のフロアスタッフでワーキングビザなどまず出ない。
だからといって留学生には見えない人たちばかりだ。

以前、知り合いのインド料理屋の社長がコックのパキスタン人を入国させようとしても入管が厳しくて手間がかかると嘆いていた。
入管の担当者いわく「日本の失業率が5%未満なのは誰のお陰か解ってるか?」と居丈高な態度をとるそうだ。
インド料理にとって、燃え盛るタンドールの奥まで手を入れて土釜の壁面でナンを焼けるコックは絶対必要な技術者だ。日本人ではなかなか出来ない。
インド人やパキスタン人でなければダメなのだ。それでも、入管は彼らの入国をできる限り拒否する。

自分がラーメン屋をやっていた時は、本物の留学生の中国人バイトを何人か使っていた。
彼らのいいところは、とにかく休みを欲しがらないことだった。いつ休みをとりたいか聞くとほとんどみんなが「ヤスミ、イラナ~イ」と答える。
留学生ゆえ帰国する前にカネを貯めたいということなんだろうと思っていた。
ところが昨年末、最年長だった中国人から突然電話が入り「今度、新橋に店を出したい」と言うではないか。
まだ日本にいたのだということも驚きだったが、東京に店を出せるほど、カネを貯めていたことに唖然とした。

彼らは特別な技術を持ってるわけではなく、ただの留学生(埼玉県の上武大学)だ。しかも、大学でも特別な勉強をしてるワケでもない。
でも、少なくともこの10年、日本でひたすらに仕事をし続けていたようだ。当時のビザはスチューデントビザだったはずだ。

ナルホド。規制あるところに利権あり、か、、、。

入管の利権だ。
入管は、正規の入国者を制限している。
だが、留学生にはビザを発給している。
留学生の定義は誰が決めているのか?
日本の学校(大学?)に籍を置くだけで留学生になれるなら、学校にカネさえ払えば日本で自由にバイトができる。
学校を管理する役所は、許諾を与えるだけでカネになるというわけだ。

これは、フィリピンパブのダンサーを管理するプロダクションと同じシステムではないか。
そのプロダクションも今ではビザが下りず商売になっていない。それに代わったのが東南アジアからの看護師養成ビジネスであり、これもまったく同じ構図だ。
かならず、どこかの省庁が利権を漁り、天下り法人が上前をはねる。

パチンコ業界+警察然り、そして原子力ムラも同じ。

こんなカラクリが永遠に続くわけがない。かならず破綻が起こる。
既に日本の借金が1000兆円に達する。
「破綻の日」は近い。

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海炭市叙景(テアトル徳山)

旅先の小さな映画館でレイトショーを観る。

テアトル徳山

テアトル徳山

木曜日のレイトショーとはいえ、自分ともう一人年配の男性のみが観客。ちょっと寂しい。
ただ、自分はガラガラの映画館が好きだ。失礼ながら場末の映画館の雰囲気の中で架空の街「海炭市」(函館が舞台ですが)をよりリアルに感じることができた。

徳山港

徳山港

映画は前知識なく観るべしと思っているので、この作品について予備知識を仕入れず開映を待つ。当然パンフレットも読まない。なので、この物語が、ちょっと昔の「炭鉱」をベースとしたものだとばかり思っていた。ところが、実は現代の話であり「炭鉱」は一切登場しないのだ。この架空の街の名に「炭」の一文字を入れたというのは、おそらく製作者が強く抱いている過去の函館や北海道といった地名の持つイメージが反映されているのだろう。そして「炭鉱」が無くなった今でもこの文字が実際の生活のどこかに繋がりを持っているのだ。

JR山陽本線 徳山駅

JR山陽本線 徳山駅

自分が映画を「観よう」と思う動機のひとつはタイトルなのではないか?たとえば「海炭市叙景」というタイトルに「炭鉱」(違ったんですけども)で働く市井の人たちの姿がストレートに描かれているという勝手な期待があったからだ。なぜか「炭鉱」が舞台の映画を自分は好きらしい。なぜなんだろう?中学生の頃から北海道や九州の炭鉱街を撮影旅行で訪れていたので、その頃の世界に対する懐かしさからだろうか。いや、それだけではない、もっと深い意識下の理由があるような気もする。

JR山陽本線 徳山駅

JR山陽本線 徳山駅

映画が始まって少し経ったところで、この作品がオムニバスなのではないか、と気づく。自分が好きな「バベル」や「21グラム」といった作品と似通った作りなのではないかと。短めのシークエンスが続くけれど、脈略がない。しかし、どこかに漂うほのかな関連性の断片がちりばめられている。そんなことを意識しながら、いつの間にか登場人物の生活を間近に傍観している自分がいた。

導入は、「事故」である。不謹慎ながら、これも炭鉱映画にはなくてはならない。炭鉱=事故が日本人の共通認識なのかもしれない。そして、それに巻き込まれる炭住生活者の悲話もあまたの作品に描かれている。しかし、この映画には炭鉱は登場しない。(しつこい)代わって登場するのが「造船」だ。港町函館(海炭市)の主要産業であり、炭鉱同様衰退産業でもある。観光のみには立脚できず、根本的な産業構造の変化に戸惑うこの街の現実がこの作品の「核」となっている。

徳山

徳山

そして造船ドックでの事故も、どこか海炭市にありがちな光景で違和感の無さが切ない。
悲話は、事故という外的な要因のみではなく、現代ではいくつもの家庭の内部に存在している。それが表層に現れる時には既に末期的な状況で如何ともしがたい。そんな人々のそれぞれの生活を包み込む北国の街。

徳山港

徳山港


この街を描く大道具としての市電の存在も大きい。市電が走る街というのは、どこでもサウダーヂ溢れる街だ。線路の持つ普遍性が変わりゆく人間とのコントラストを浮き上がらせる。様々な人が様々なシーンで関わりあう市電。車両も旧型がいい。新型は合理的で利用しやすくなっているのだろうが、合理性とサウダーヂさは両立しない。

実は、登場する函館市電1006型は、元都電7000型である。この映画を撮影している時は、ほぼ都電のカラーリングのようだった。電車の前面に「さよなら」の文字がチラッと見える。この車両の引退の時期と重なったものだ。人間同様、東京(内地)からやってきた電車の引退というシャドーストーリーも作品に奥行きを持たせている。

青函連絡船は既に無くなってしまったが、自分にとって北海道とは海峡を「渡る」もので、飛んだり潜ったりして行く場所ではない。おそらく、製作者にも同じ感覚があるのだろう。架空の街には、連絡船が似合っていた。そして海峡ですれ違う連絡船が内地と北海道を行き来する人間の姿と重なる。

徳山港

徳山港

生きていくことは、常に人と人がすれ違い、喜怒哀楽にまみれることだ。しかし、「海炭市叙景」に描かれている人たちは、運命の悪戯もあり、ほんの些細な一線からはみ出してしまい、幸福に出会えずにいる。これは決して他人事ではない。考えてみれば、我々も同じ「海炭市」の住民のひとりなのだ。

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GWツーリングで日本のアイデンティティを確認。

せっかくの休みだから、万難を排してバイクで出かけます。
うまい海の幸でも食べようと新潟を目指すことに。

GB250Clubman

GB250Clubman


出発は、大宮から来る旧友に合わせることにしたのだが、「6時には大宮を出る」と言っていた彼は7時を過ぎても現れない。自宅前の立体交差を軽井沢方面へ向かうのであろうバイク乗りたちが何台も通りすぎていく。

8時になっても現れない。おかしいなぁ、、、。すると、8時半頃携帯が鳴った。「トラブルがあって、まだ岡部にいるのよ」だって。ヲイヲイ!もっと早く電話しろよー!

ココ経由よりもそのまま国道17号線を走ってもらい、子持村の道の駅「こもち」で待ち合わせることになった。だとすれば、自宅からは30~40分で着いちゃうから、まだ時間がある。家の中に戻って、半音階したりアルペジオの練習したり、コーヒー飲んだり、ヴィラ=ロボスのエチュード1番2番3番を弾いたりしたところでそろそろと出かけることにした。まだ、早いカナ~~。

予想通り、スンナリと道の駅「こもち」に到着。AM9:40分。

う~む、何組のツーリンググループが私の前を通り過ぎたであろうか。11時を回ってもまだ、旧友からの連絡は来ない。

道の駅「こもち」

道の駅「こもち」にて旧友を待つ。10:20撮影。

ま、結論から言えば、彼が到着したのは11時半でありました。
なにやら、タンクバッグのマップケースを駐車場に置き忘れ、取りに戻ったが、既に盗まれていたとのこと。あ~ぁ、もったいないことを。

という旧友のトライアンフ

という旧友のトライアンフ

この時点で新潟行きは半分あきらめ、越後湯沢あたりにしようか、と。
とりあえず、三国峠は越えないとねぇ。

ところが、走り始めると、やっぱ楽しいのだ。で、あっという間に石打。17号線の交差点を左折して山間部(国道353号線)に入りワインディングをヒラリヒラリとかわしていくうちに、とりあえず柏崎ヘは行こうという気持ちになった。

途中、棚田が美しい集落を通過。

新潟 棚田

新潟 棚田

天気が良くて田植えが終わってればさぞかし美しかろう。

棚田とGB250クラブマン

棚田とGB250クラブマン

ところどころガードレールが外されている。これは、ひょっとすると景観重視にして観光地化するのかな?と。それなら賛成です!美観という意識が今までの日本には少なすぎた。日本は美しいところがたくさんある。それらを潰してカネ儲けに結びつけようとする信じがたい連中もまた多い。困ったものだ。

さて、延々と続く狭いワインディングロード。とても国道とは思えないようなところを走り続け、やっと柏崎へ到着。市街地は静かな感じ。あまり観光客は見当たらない。やはり「原発事故」が影響しているのかな、などと思いつつ漁港近くを走る。店が少ないので、あらかじめ見当を付けていた西山駅近くの「みやこや」さんに行くが準備中。こりゃダメだと、寺泊を目指す。肌寒い天候にもめげず、石地海岸から日本海沿いを北上。

人気のない寺泊に到着し、海岸公園方面に向かうとビツクリ!そこには大渋滞があったのだ。

柏崎 角上魚類の大混雑

寺泊 角上魚類の大混雑


それにしても、こういう所にあまたいる派手なジャージ姿の家族連れが、オレはどうにも好きになれない。尾崎将司の後ろ髪を真似た子供がいるヤンキー系ね。もちろん、姿カタチで判断しちゃいけないのだが、おそらくかなりの人達がパチ系なんだろうなぁ。彼らは、さっきの棚田を見たら一体どう思うのだろう?何の感慨も持たないのだろうか。こういう人間が増えていくことで、日本という国のアイデンティテイが蔑ろにされるんじゃないか?おそらく、そういうことなんだろう。

原発事故は、日本という国のアイデンティティを不可逆的にぶち壊してしまう。だから大問題なのだが、それだけでなく日本人自体が日本的価値観を持てなくなったら、もしかしたら事故以上に恐ろしい。為政者がそう望んでいないことを祈るまでだ。

寺泊には、こういう展示もあった。

ここにも龍馬伝関連展示「順動丸シャフト」

ここにも龍馬伝関連展示「順動丸シャフト」

曇天で今にも雨が降り出しそうな気配。それに寒い。今宵は新潟へ出て一泊しようということになり、越後七浦シーサイドラインを目指す。

柏崎原発の横を過ぎる。やはり、原発反対のプラカードがいろんな場所に見られる。このあたりの住民にとって毎日のニュースは他人ごとじゃないだろう。もちろん、オレたちにも他人事じゃない。

新潟に着き、iPhoneアプリ「ご近所ナビ」で調べたビジネスホテルに片っぱしから電話。ところが、見事に満室だとのこと。たったひとつ見つかったのが「I旅館」。昔ながらの商人宿ですね。久しぶりに泊まったなぁ、こういう宿。非常に懐かしい。

で、もちろん夜は古町へ。

ところが、噂どおり、古町は閑散としていたのです、、、。
仕方ないのでバスに乗って駅前へ移動することに。近くのバス停に行ったら新潟交通の人が立っていて「今、100円バスの試験運転してます」というのです。

100円バス

100円バス

何台もの新潟駅行きバスをやり過ごして「100円バス」をひたすら待つ。別に試験運転だけじゃなくても実施すればいいのになぁ、、、。10分ほど待って100円バスに乗車。新潟駅一つ手前で下車して目的の店を目指すが、今日は何かとツイてないんだよなぁ~とイヤな予感があった。

で、それが的中。目的の店は祝日は20時閉店だそうです。あと13分じゃぁねぇ。あきらめた。てくてくと歩いていると、出張族の味方!というお店を発見。なんでもビジネスホテルの従業員オススメランキング1位だそうだ。じゃ、ここでいいや。ってなことで決定!「あづま亭」。http://r.tabelog.com/niigata/A1501/A150101/15000913/

ところが、意外や意外、これが良かったのですよ。何がイイって日本酒が安い!有名どころだと〆張鶴や八海山あたりでも500円未満。やっぱ、新潟は日本酒だね~。今回は、西蒲原郡巻町の上原酒造の酒「越後鶴亀」がヒット。安くてうまい!この酒、初めて飲んだけど端麗辛口でいけます。久保田も相変わらずいいです。

巻町は住民の反対で「原発」を造らなかった町。その心意気が感じられる、といったら言い過ぎかもしれませんが、とにかく旧友と二人で意見が一致。よかったよかった。

もうひとつヒットが、このお店のすぐそばにある「きんしゃい亭」という、とんこつラーメン屋。ぜんぜん期待していなかったのに美味しいラーメンでした。替え玉しちゃったよ。ただ、麺が割りと柔系(やわけい)です。普段は福岡でも硬(カタ)麺は頼まないのに、今回替え玉はカタいのを所望いたしました。うまかった。

ということで、新潟の夜はふける、、、。

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六ヶ所村へ行った(2007年6月1日)

今から、約4年ほど前、2007年6月1日に青森県の六ヶ所村に行った時の日記です。

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新幹線「はやて1号」を終着八戸で「白鳥」に乗り換え、AM10時27分三沢駅に到着。
高崎をAM7時ちょっと前に出てきたので、約3時間半の行程。こりゃ早いや!


青森市民が新幹線を欲しがる気持ちがよく解る。在来線に乗り換えるのとそのまま直通とでは、ワケが違う。たとえば去年「青春18」で各駅停車の旅をしたけれど、その時の所要時間は、17時間ほどだったのだから、今朝はまったく距離感がないのだ。
しかし、いざ三沢駅に降り立ってみると、気温の違いが緯度の違いとして伝わってくる。とにかく、寒い。

知り合いの群馬在住の野辺地出身者が上着を持っていくようにとアドバイスしてくれたが、去年の夏の「浅虫温泉毛布事件」http://blog.so-net.ne.jp/quatre-l/2006-08-20を体験している自分は密かにシッカリ用意していたのだ。ただ、それを自宅に置き忘れてきちまったのだから悔しいったらない。こういうのってホントがっかりだ。
三沢駅には地元のKさんが迎えに来てくれていた。


十和田観光電鉄三沢駅


十和田観光電鉄三沢駅


十和田観光電鉄三沢駅 駅舎内部

Kさんのクルマで、今やシャッター通りと化してしまった三沢の商店街を走る。10年以上前、仕事で来たときは、もう少し賑やかだったような気がする。やはり、郊外に大型SCが進出し中心街の空洞化が加速したようだ。呆れるほどの日本列島総金太郎アメ状態である。


三沢市の商店街

三沢市の商店街にある「たけや」


米軍基地近くの再開発中エリア

しかし、今日の目的地は「核燃料の再処理工場」。日本で唯一、実験ではなく本格的な稼働をしようという青森県北東部の村を訪れるのだ。決してありがたくない日本一なんだろうけども。

実は、以前から六ヶ所村の「再処理工場」の問題点についてネットでいろいろ調べていた。ちょっと前には有名なミュージシャンやアーティストたちが連名で「STOP ROKKASYO!」(http://ja.wikipedia.org/wiki/STOP_ROKKASHO)の活動を始めたりしたこともあって、このところ世間の感心が急速に集まりつつある問題だ。

20年以上前、チェルノブイリ事故当時、広瀬隆氏のベストセラーを読んで、もう牛乳は飲めないとかパスタは食べられなくなるのかと不安でいっぱいだった。あの本を読んで同じような気持になった人は多いと思う。http://www.janjan.jp/link/0610/0609260822/1.phpもちろん、現在では食べたり飲んだりしているのだが、それは決して忘れたわけではなく、常に心のどこかに引っ掛かっている小骨のようなものだ。ネットが一般的になってからは、核問題についても自由に調べることが可能になり、その裏に潜む構造的な利権システムさえあぶり出されてきた。そして、一部に例えば甲状腺ガンの多発という形で現代社会の表層に現れ始めた大事故の影響は、「再処理工場」を止めるに充分すぎる理由だと思う。このページは是非見てほしいと思う。http://cnic.jp/modules/rokkasho/しかし、いまだこういう市民活動に対して拭いきれない妙な他力本願的拒非反応を示す人も多い。考え方はわかるんだけれども、自分は積極的に関われない現実があるし的な感覚だ。んまぁ、それはしかたがないと思う。ただ、調べる価値はあるはずだ。それが可能なネット環境下にいるのだから。


六ヶ所村原燃PRセンター

三沢市から六ヶ所村までは約20Km。むつ市までは約30Kmあるので三沢が一番近い市である。いわば、地元。そこにアメリカ軍基地があるのは果たして偶然なのだろうか?そこに興味があった。

早朝の米軍三沢基地


太平洋横断飛行した「ミス・ビードル号」

海岸線を走ると松林の向こうから太平洋の怒涛が聞こえた。激しい波の打ち寄せる砂浜にはこのあたりでで獲れるホッキ貝の貝殻が無数に散らばっている。ただ、このあたりでは海水浴はしないのだそうだ。波がとても荒いため危険だからだという。確かに白い波頭が幾重にも続き、とてもじゃないが泳げそうにない。言われてみれば、そうか、と思う。海なし県に育った人間には、そんなこともわからない。強いヤマセを浴びながら自然の力に対する畏怖の念を感じる。

尾駮(おぶち)船だまりのイカ釣り船。

六ヶ所村の産業は半農半漁で、全く別に「ゲンネン(原燃)」がある。長芋とイカが名産だ。

旅行中このあたりの海で上がるイカを何度も食べたが、シッカリした歯ごたえの「うまい!」イカだった。

佐賀県呼子へ毎月通っていた私は、イカにはウルサイのだ。青森をはじめ八戸などで揚がるイカもうまい。


飲んだ焼酎も六ヶ所村製。これもイケます。

実は漁港以外に「別の目的」の港がすぐ隣りにある。そこの出入り口付近の交差点には4人もの警備員が立っていた。あとでわかったけれど、ここから核燃料や廃棄物が海上輸送されているのだった。どこの原発も同じだけれど、このあたりも素晴らしいコンディションの舗装路が何本も走っている。国家的大型プロジェクトならではの豪華さだ。

六ヶ所村尾駮(おぶち)漁港。

ところで、六ヶ所村に「原子力発電所」はない。あるのは「再処理工場」だ。靖国神社が海外からはお寺やお墓だと勘違いされているのと同様に、ごく普通の人は「原子力発電所があるんでしょ」と思っている。そして、再処理工場についてNO!と言ってるのを「原子力発電反対!」と取り違えている。もちろん原発にも問題はたくさんあるのだけれど、とにかく今、反対派が問題にしているのは「再処理」なのである。推進派もこの点をごちゃ混ぜにし、原子力発電とからめて説得しようとする。いわく「電力不足をどうするの?」的に。


米軍三沢基地内

米軍三沢基地内のF-16

これから日本の人口は、毎年40万人も減るというのにピーク電力不足は本当なのか?という突っ込みは置いておいて、原発推進派も反対派も少なくとも「再処理」についてのみは合意できるはずなのだ。なぜなら再処理には経済的な見地に立ってみても合理性がなく、ウランの再利用には通常の100倍ものコストがかかる。また、再処理によって作られるプルトニウムの使い道は世界的に見ても「原爆」だけなのだ。原爆以外の用途は世界中どこを探しても無い。そして諸外国はこの点を問題視している。非核三原則を謳う日本にとって百害あって一利なしの無用の長物だ。ところが、どういうわけかアメリカのみが日本の立場を理解してくれているのである。とにかく、ほとんど年金問題同様のメチャクチャな論理がまかり通っているのだ。根底に流れる仕組みはちょっと前の社会保険庁となんら変わらない。


六ヶ所村原燃PRセンター

一度稼働してしまうと、毎日「原発一年分の放射能」が地上、海中にタレ流しされるという事実を積極的に公表しない国は、いったい何を考えているのだろう。そして、これだけ問題になっている社会保険庁の醜聞をもってしても未だ大本営発表を心待ちにする国民のなんと穏やかなことか。我々はいわば官僚社会主義の崩壊前夜の真っ只中にいるのであって、情報は積極的に獲得しない限り、歪曲されたものしか与えられないことに今更ながら気づいて欲しい。今、年金について不安に思わない国民がいるのだろうか。国(自民党)は、それでも安心だと、まだ言い続けている。核問題は年金問題のようにコトが起きてからでは取り返しのつかない不可逆性を孕んでいる。そこが決定的な違いだ。


太平洋も大いに怒っていたぞ。

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ウニ!


焼き魚


亀の手 ウマイのだ。


三沢市航空博物館のYS-11

三沢市航空博物館のYS-11キャビン

小川原湖

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東北の高速道路を全て無料化せよ!

作家猪瀬直樹氏は尊敬に値する人物だ。

20年も前から高速道路事業(道路公団)の問題点を追求していて、オレは週刊文春の連載(ニュースの考古学)を愛読していた。猪瀬氏らの追求の結果、激しい抵抗を乗り越え、めでたく道路公団は民営化された。 http://goo.gl/pipnk

ところが、自分はこの結果を喜んだものの、若干虚しい気分で受け入れていた。
民営化が決まった頃、ある人の意見に共感していたのだった。

それが、山崎養世氏。 http://goo.gl/3FDS
彼は、経済学者のエリートであり高速道路無料化を訴えていた。

猪瀬氏は、高速道路を民営化して値下げし、売上をアップさせ、建設費の償還の期間を短くさせた。山崎氏は、高速道路そのものを無料化し、全国の料金所を廃止させ、そこに巣食う利権を根こそぎ断つ。建設費の償還は、税金で賄う。全国の高速道路が無料化されれば、日本経済がダイナミックに活動し、高景気になり税収のアップも見込めるというもの。地方と中央の格差の是正も重用だ。

どちらの案も非常に具体的な売上予測等を考慮した上のものなので、いい加減な話ではない。

民主党の菅直人首相は、政権交代前、山崎氏から話を聞き、「高速無料化」をマニフェストに盛り込んだ。その後政権交代が実現したが、その頃より段々と「無料化」の話がフニャフニャし始めた。官僚の術中にハマり始めたわけだ。

そして、出てきた話が無料化「実験」である。
さらには、高速料金1000円上限。

どちらも一見無料化へのベクトルかと思わせるが、まったく違う。
ご存知のように、無料や値引きには税金による「補填」が存在するのだ。そんな事はだれだって知っている。

ただ一番重要な点は、JHという国交省からの天下り団体は温存されるということである。山崎氏が改革したかった一番の問題がそのまんまになってしまっているのである。JHのハラは痛まない。税金で賄われるのだから。
そして、本日猪瀬氏が自身のツイートでこう述べている。

————————引用——————————

高速無料1200億円、土日1000円は2500億円、東日本大震災の復興財源にあてることで6月中止となった。無料は支離滅裂のバラマキ政策だった。土日1000円も期間限定で3月末までだったのに人気取りのためなし崩しに延長したもの。少しは目が醒めたのかな。

———————引用ここまで—————————

「高速無料1200億円、土日1000円は2500億円」猪瀬氏が仰る通り税金による補填だ。
では、この補填金額が全部償還費に回っているのだろうか?JHの組織運営という巨大なムダには一切流れないと言い切れるのか?

無料が「支離滅裂」というのは、この「補填」を前提にしているからであり、この「償還」についても山崎氏の考え方とはまったく違う。それを飛び越えて「少しは目が醒めたのかな」という書き込みは、いったい誰に対してつぶやいたものなのか? 猪瀬氏は、時々こういう上から目線でモノを言うことがある。

無意味な1000円高速も無料化実験などどうでもいいが、東北の大災厄に際して、東北自動車道や常磐自動車、磐越自動車道、秋田自動車道など東北地区の高速道路は、直ちに無料化すべしだろう。暫定的でも実験でも構わない。国交省は、なぜ、ここを無料化しないのだ?とにもかくにも償還費が必要だと?そのあたり、ぜひ猪瀬氏にも聞いてみたいものだ。

とにかく、JHという団体は、今現在、被災地からも料金を取り続けている。
国交省の大臣は、いったいどこを向いているのか?

ところで、巨悪は、必ず見えるところには出てこない。

電通や博報堂という名前はネットのどこにも登場しないが、普段、日本を動かしているのはオレたちだと豪語している。原子力発電についてもTVCMについても報道に関しても彼らは必ず関わっているのだ。

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万座 雲上の露天風呂に浸かる。

万座プリンスホテルにてご来光を浴びつつ朝風呂をいただく

標高1800メートル雲上の露天風呂だそうである。
万座はスキーだけでなくバイクのツーリングでも何度か来ている場所だが、温泉に浸かったのは初めてだ。

草津温泉の場合、ほとんどが無料の町営温泉だし、四万やみなかみでも数百円の温泉ばかり。しかし、プリンスホテルとなるとさすがに数百円とはいかないだろう、と敬遠していたのだった。ローケーションもいいし有名な露天風呂だから高いだろうと。ビンボーな性格は治りそうもない。

朝6時5分過ぎ、東の山稜からまぶしい朝日が顔を覗かせた。空は雲ひとつない快晴だ。

昨夜から頭上をチュリチュリと鳴き声をあげながら鳥が飛びまわっていた。今朝も真っ青な空の高いところをたくさん飛んでいる。やはりツバメだ。しかもちょっと見ただけでも数百羽はいる。まだ寒いだろうに、こんなところにも来ているのだ。ところどころ、亜硫酸ガスが噴出しているような、こんな場所にも巣でもあるのだろうか。我が家にはまだ来ていないなぁ、、、。

ふと、露天風呂の西側を見ると大きな動物がいる。おお、カモシカだ。露天風呂の脇で普通に草を食んでいる。いつか、赤城山への登り口で馬のような大きさのカモシカに遭遇したことがあるが、急峻な道なき崖をいともたやすく登っていってしまった。人間には及ばぬ自然の「力」に畏れを抱いたものだ。ツバメの帰巣本能についても人知の及ばぬ何かがあるのだろう。

1960年に開業したこのホテルは、名前を少しずつ変えて現在「万座プリンスホテル」となった。自分が1959年生まれだから、ほぼ同い年。ロビーに貼ってある思い出の写真がとにかく懐かしい。その昔、子ども会の旅行で来た頃の写真だろうなぁ。スキーヤーのウェアやスキーのデザイン、観光バスの時代性が高度成長の「明るさ」にせつなさすら覚える。
いい時代だった。

雲上の露天風呂に身体を浸す。久しぶりの強酸性のお湯が心地いい。お湯に浸かるときに起こる波紋を見て、不意に津波を思い描いてしまった。たくさん雪が残るこの山間のいで湯にいても今回の大災害のことが心から離れない。至るところから吹き上げる亜硫酸ガスの湯煙も原発の水蒸気に見える。

すでに最悪の行程を辿り始めている大事故は、もはや祈るしかない状態に陥った。

東北地方の太平洋側では、帰る場所を失った人たちがとてつもない数になってしまった。各地区では人手不足、情報不足で行政が立ち行かない状態だという。平常時なら何とかなるかもしれないが、今回のような未曾有の大災害になれば当然だろう。未だ、抜本的な対策を打ち出せない政府には、怒る気にもなれない。

大空を舞うツバメたちの中にも帰るところを失った仲間がたくさんいることだろう。まぶしい朝日を見つめながら、これからの日本は、いったいどうなってしまうのか、考える。
まだ帰れる家がある自分はいい。しかし、もしもこの家が無くなってしまったら、また、帰ることが出来ない状態になってしまったら、、、。まったく、分からないのだ。

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